宗教の話

空飛ぶスパゲッティモンスター教って意外とまともな考えからできてるんだな。宗教については調べるとなかなか面白い。

あまり外に話したい話ではないけどせっかくなので自分の体験でも書いてみる。とりあえずフィクションですよってことで。

俺の親はTという宗教に浸かっている。わりとどっぷりである。子供のころから日曜日は教会に行ったしご飯の前にはお祈りしたり、ことあるごとに宗教に関連した行事を行っていた。子供のころは親が積極的にやることだし、それが自然だったから特に何か思うことはなかった。同じ立場の子供たちもいたし、彼らと遊ぶのも楽しかった。しかし、教会の子供と学校の子供は明確に線引きをしていた。どちらと遊んでいるときにも、もう片方の付き合いのことは口に出さなかった。別に誰に言われたわけでもなく、なんとなく違うなと思っていたからだと思う。

教会に行くのを嫌がりだしたのは中学に上がる前あたりだったか。教会に行って何をやるかというと、いわゆる礼拝である。一般的なものがどういった形で行うのかは知らないが、流れとしてはえらい感じの人が何やら話をして、教会の聖歌を歌い、献金してお祈りする。基本的に子供にとって楽しいものではない。ずっと座っているのもつまらない話もお祈りもしたくてしていることではないからだ。せっかくの休日を半日以上つぶされるのも嫌な気持ちになった。当時は車で行く距離なので、親が帰るといわない限りずっとそこにいることになる。教会とはいうが、別に十字が建物の上に立つような立派なものではなく、普通の雑居ビルのことをそう呼んでいた。悲しいかな、中学生ではそれを避ける理由などないのであった。自分で言うのもなんだが、わりと能天気に育ったので反抗する理由もつまらない以外にないから断りにくかったのだ。

このころまでは夏休みとか連休になると、教会の子供行事みたいなのに放り込まれていた。少年自然の家とかを借りて合宿だ。Tという団体にはもちろん聖書的な役割の本があった。その解説をひたすら行う。ノートに黒板を写して覚えて、話を聞いてどんなことを思うのか発表するという嫌がらせのような合宿である。オリエンテーションもあるにはあったが、合宿に放り込まれるのは知り合いばかりではなく、人見知りの気がある身としてはほっといてほしい気分でいっぱいだった。

その状況が変わったのは高校に入ってからである。正確には部活に入ったからだと思う。両親は宗教を信じていたが、子供が真剣にやっている部活動を辞めさせるほど狂信的ではなかったのである。また、遠目の高校だったため、そのころには家を出ていた姉の家に同居させてもらえたのも離れられるいい機会だった。自分の性格や指向を確立するうえで、この時期に宗教から離れられたのは良かったと思っている。普段の生活では宗教にかかわりなく自由に過ごす分、年末や何かのイベント的なものに強制的に参加するとおかしさが具体化していく。特に宗教のトップの人が生まれた日とかは万歳三唱である。あったこともない人の生まれに思い入れなどない。ありがたいお話もどこかずれている。話している人の目にどこか怖さを感じた。少し前に流行ったブラック居酒屋の人の写真の目によく似ていたように思う。

高校から大学と進みますます宗教から離れる。世間一般的には怪しい新興宗教という扱いだし、俺自身そう思っている。しかし実家に帰ればTはそこに染みついている。両親のことは嫌いではない。むしろ基本的には尊敬している。だが、この一点だけはと思う。宗教のトップの反省を漫画化したものを昔読んだ。人の反応を見るためにびしょぬれで満員電車に乗り込んでいた。こまかいところは忘れているが、あえてそれをした人格にひどく不信を覚えた。そういうコンセプトなので仕方ないが、クズ行為が賛美されているようで不快だった。

今でも実家に帰ると宗教行事に参加させられることが多い。俺個人のスタンスとしては何を信じてもいいと思う。ただしそれは個人で完結していなくちゃいけない。信じたことを主義として話すもの別にいい。なんでそれを押し付けるのか。本当に不愉快だ。それが親なんだから始末に負えない。それ以外はいい人なんだ、なんてまんまDV男にすがる共依存女である。もしくは高飛車女にすがるアッシー君か?これからも頭を悩ませる問題なのは間違いがない。直接対決もありそうなのがほんと嫌だ。